昭和五十七年六月二十九日 朝の御理解


御理解 第三十六節
 「日本国中あらゆる神を皆信心すると云ふがそれは余りの信心ぢ            ゃ人に物を頼むにも一人に任すと其人が力を入れて世話をして  呉れるが多くの人に頼めば相談にくれて物事捗らず大工を雇う  ても棟梁が無ければならぬ草木でも心と云うたら一つぢゃ神信  心もこの一心を出すと直ぐにおかげが受けられる」


一心を出すと直ぐにおかげが受けられる、と。このかた一心と、ま心を定めると云う事でもございましょうが、一心に願うという事は案外できるようですね。一心にお願いをする、と、けども、一心に詫びるとか、一心にお礼を云う、とか、と、いう事になると、こ、おぼろげになったり、只、形だけになったり致します、ね。例えばお詫びを一心にするお詫びなら、必ず改まりが伴うと思うですね。また、一心にお礼を申し上げるなら、必ず、ね、口だけではない、なにかそこに、形に表さなければおられないものが、伴のうてくるのが、私は一心のお礼だと思うですね。ま、どちらにしても、形だけではいけませんけれども、一心に詫びるとか、一心に願う、そこに一心に願うという事が一つになって、私は、その一心を出すと直ぐにおかげが受けられる、という事に、ま、つながってくるように思います。同時に、一心という事は、私共が願う事に、ま、願わずにおれない事ばっかりなのですけれども、ま、ねがいます。で、どうぞ、一つよろしくお願いします、お願いしますというものが、私共が現世においての助かり、ね、いわゆる、現世においての御利益。なかなかおかげを受けて、段々信心が、神様を信ずる事が出来るようになり、それこそ、生きても死んでも、この神様一心、この神様におすがりするより他に手なし、というような心が定まってましります、ね。そこから、私は先祖の助かり、霊の助かりを思う時に、現世にある私共だけではなくて、その家の根が助かるという一心が出されて、いわゆる、私はこの世だけではない、あの世、この世を通しておすがり致しております。それは、あなただけです、と、いう事になるのぢゃないでしょうかね。この世では、もう、一心に金光様一本ぢゃったけれども、あの世で仏様、と、いったような事では、まだ本当の一心とは云えない、と思うですね。
私、合楽におかげ頂いて、御神縁を段々深くして参りまっすと、おかげも新たかですけれども、そこに思い至る働き、と、いうものがいつもあっておるんですけれども、気がつかないんですね。 これは、現世における助かりと、ね、また、この世に私共がおかげを頂かなければならん、という事も、ね、一緒にわからせて貰う時に、本当にわかった、という事になるのであり、いわゆる、本当の一心とは、そういう事だとおもう、ね。たとえば、お詫びに一心、お礼に一心、お願いする事にも一心、ね。これは、現世において、私共ここん所をいよいよ、ま、本当なものにしていかなければいけないと思うんです。そして、信心がいよいよわかってまいりましたら、いわゆる、あの世この世を通して、助からなければなりんません。また、御先祖も助かってもらわなければなりません、と、思い至らせてもらう、という事がね、あの、大切だと思うし、そういう働きがいろんな形であっておるんですけれども気がつかない。
合楽では、この、霊様の帰幽日などは、ま、必ず甘菜辛菜のお供えでもさしてもろうて、必ずここで、玉串を上げられる、と、いうような方達が段々増えてまいりました。
これは、いよいよ、家の根、と、いうか、先祖を、いよいよ大切にせなばならん、と、いうだけではなくて、現世において、私共がこのように助かっておるのであるから、ね、合楽の御信心を通して、また、霊様達も助かられる事を確信できる。そこに様々な、いろんな、ま、霊威現象もありますね。霊が助かりたい、ね。だから、なら、今迄の、ま、仏教なら仏教が多いんですけれども、で、助かっていない、ね。それは、まあ、ちょうと、何と云うでしょうか、ま、理屈を云うようですけれども、現世で助ける力もない宗教が、あの世で、なら、霊を助ける、という力があろうとは思われませんね。ま、簡単に云うて、はあ、ね。イエス様であろうが、仏、如来様であろうがですよ、ね、現世において生々とした働きを現して下さる程しの力があって初めて霊もたすかる。
この世では仕方がないから、あの世では、という。その、あの世で頼りない感じがするんですけども、例えば、合楽に御縁を頂く人達が、まず、んなら、自分達の事の、いわゆる、願いが成就する。
神様のおかげ、と云わずにおれない、万事万端お都合お繰り合わせを頂く。昨日は竹葉会でしたが、ナ、丁度、半分の方しか時間がございませんで発表出来なくて、十何人の方が発表しましたが、もう一人一人に、その、生々とした神様を頂いておられるお話ばっかりでした。ですから、そういう、なら合楽で、ちょっと信心の稽古をさしてもらい、例えば天地に通うような信心の手立てを教えて頂くのですから、そこに生々とした働きが生まれてくるなら、そういう働きが、です、自分達の上にだけではなくて、御先祖の方達も、そういう助かりを頂いてもらったら、いよいよ有難い事になるだろうと、いう事に、ま、思いが至ってこなきゃならんのです、ね。そこに、ま、いうならば、お取次を頂いて、ま、誰誰さんのお先祖も一緒に助かって、いうなら、根が生々としてくる、ね。      明日は、悪疫予防交通安全の大祈願祭が、もう、合楽の恒例の、もう、大きなお祭りの一つになりました。ね。
確かにその、悪疫予防の形だけではない、実際おかげの受けられる、去年が丁度、上野先生が、あのう、申しておりましたが、千九百・・・、兎に角、二千台近くの車のお祓をさして頂いとるです、ね。それが本当に、ま、みんなおかげ頂いとるという事実なんです。
事故がなかったかというたら、ある。まあ、車がこわれてしまったというような事故にあった人もありますけれども、おげでで、ま、命に別状はなかったとか、カスリ傷一つもしてなかった、と。
そこにほんとうに、その、御守護を感じずにはおれない働きの中になら、二千台の車が、去年おかげを頂いたわけなんです。ね。これは、も、まあ、それが本当なら世紀の奇跡だと騒ぎ出しますが、ねそれが本当に、合楽では、おかげを受けておる、という事です。 そういう働きをです、私共がなら、その交通安全とか悪疫予防だけの事ではなくて、日々お取次を頂いて、おかげをいただいておるのですから、このおかげ、この働きを私共が魂の世界に入っても頂き続けなければならんが、いわゆる、ね、お先祖の霊達も、このように助かってもろうたら、いよいよ有難い事になり、先祖は家の根と云われる、根が生々としてみえるから、これは毎月、月の帰幽日を決めて、必ず、あの、玉串をお供えされる家庭の中では、その霊の働きをはっきり感じておられますよね、確かに。ね。いわゆる手答えがあるわけです、合楽の場合は、ね。ですから、こころが神様に至る時に、お互いが何事にも信心になれ、と云われるのですから、只この世で、めのぬき算なおかげを受ける、という事だけが信心ではなくて、ね、目に見えないおかげ、というものが、段々わかってくるようになるというならば、先祖の霊も助かってもらわずにはおれない、という事になる。
昨日は竹葉会、佐賀の支部長であります空閑さんが、発表しておられましたが、こうして本当に、まあ、新たかなおかげを頂いて何年になりますが、ね。そしてまた、佐賀支部長としておかげを頂いて確かにフシギなおかげを皆さんが頂かれる。朝晩の御祈念にも、やはり、だから力が入ってくる。家族中の者がおかげ・・、信心のなかった主人もこの頃は、一緒に御祈念をしてくれるようになりました。と、ま、現世における、おかげの新たかさ、というものが段々出来るように、わかってまいりましたけれども、ね、改式をしようというような事は、全然思うてもいなかった、という発表を昨日しました。ところが、今度、お婆さんが亡くなられて、丁度、佐賀支部の大祭の日でしたからね、私があちらへ参りましたのと、お婆さんが亡くなられたのと一緒でした、ね。本当に、ま、お祭りを奉仕させてもろうて、ま、早速、あくる日は告別式でしたから、本当に、ま、本家を取っておられるから、御主人の兄弟がいくらもあるんですけれども、ね、も、これほど空閑家では、合楽合楽としなさるけん、告別式も合楽でしてもろうたらどうぢゃろか、という事になったんです。それで、ま、あした、盛大な告別式が行われました。
それから、よりより、ま、それでも何か心もとない、というものがあったんでしょうね。
金光様では、兄弟が、そのお婆ちゃんの御遺骨を分けて、というような事になったけれども、ここで五十日祭があった時に御理解を頂いて、も、兎に角そういう事は、兎に角、合楽一本にお願いしていったがいい、と、いう事になって、丁度、五十日祭の二、三日前に改式祭をなさいました。正式に改式祭をなさった、ね。御神前も、も、霊舎の方もそれこそ、あの、お床の間いっぱいにお祭りをさして頂く事ができられた。いわゆる、奉斉が出来た、ね。
そして、五十日祭がここで御親戚みんな集まってお祭りを頂かれてお話を頂かれて、いわゆる、金光様の有難い事がわかって、いろいろ云うたり思ったりするような人もあったろうけれども、空閑家がいわゆる、合楽に改式してしまうという事になった、その過程を、昨日発表しておられました。
本当に、これだけのおかげを頂きながらも、改式なんて事は夢々考えておりませでした、と。ただ、金光様というなら,お願いをするだけの神様でしたけれども、ね、お婆ちゃんの死によって、おかげで沢山の親戚一同も、ね、それこそ、ま、それに賛同してくれて、改式が出来たという事を、非常に有難いというてお礼を申しておられましたが、珍しいケースです、ね。そういう、例えば、も、ね、も、金光様ち、この世でおかげ頂くだけで終わらずにね、それこそ霊肉共に助かる事の手立てが出来れる一心、と、いうものが出た時初めて一心。
本当に金光様の信心の、いわゆる基本というものが、形の上にだけでも出来たな、と、いうお話でした。
お互い、基本もまだ出来てない、成程お願いをする、そのお願いの中には、一心に願う、頼むとか、また、一心にお礼とか、お詫びとか、というところまで、ね、は。例えば、出来たに致しましても、ね、私共が、いうならば霊の世界に入っても、やっぱりこの神様にお願いする以外にはないというふうに決まった時に、私、本当の一心というのは、そういう事ぢゃないかと思う、ね。
これは、私共もやっぱそうでした、ね。何十年信心しとるけれどもも、兎に角、この世でおかげを頂くという事だけの金光様でした、         、ね。それが、私共が引き揚げて参りまして、いよいよ本当の真の信心を、ま、求めさして頂くようになって、ね、これはどうでも、お先祖も一緒に助かってもらわねばならんというので、その、それこそ、正式に改式のおかげを頂いても、今迄、沢山拝んでおった大神宮様やら荒神様やら○○様というのも、みんな天地金乃神様の中に奉還して頂いて、いわゆる、本当の意味で金光様一本、金光様一心になったんです、ね。それから、大坪家の上に様々な事がありましたけれども、そういうような事を境に、本当のおかげが頂けるようになったように思います、ね。一心とは、やっぱ、そうですよ、ね。成程、一心を立つれば、真ぐにおかげにという程しのおかげとは、ね、この世、いうならば、願う事にも一心なら、お礼を云う事も、おわびをする事にも一心。一心になるから詫びる。その次には改まりがある、ね。一心にお礼を云うから形に表現しなければおられないという信心が生まれてくる。これも一心。同時に霊肉共にの、いうならば助かりを、いよいよ思うた時に、現世でこのようにおかげを受けておるこれを、このままあの世でも頂きたい、先祖にも頂いてもらいたい、と、いうところに改式という事になる。いわゆる、金光様一本になった、金光様一心になったとは、そういう事ぢゃないでしょうかね。                                           「 どうぞ 」